スキップしてメイン コンテンツに移動

重荷を負う務め(2023年7月16日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 226番 輝く日を仰ぐとき 


「重荷を負う務め」

ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

関口 康

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい。」

今日の聖書箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙6章1節から10節です。この箇所を理解するために大事な点は、パウロが書いていることはすべて教会の内部のことであるということです。一般論ではありません。この箇所は教会の中で読まれ、教会の中で出会う様々な出来事と結びつけて理解されるとき初めて、意味が分かるようになります。

ご承知のとおり私は4年半前の2019年4月から明治学院中学校東村山高等学校(東京都東村山市)で聖書科非常勤講師をしています。学校の授業で繰り返し言ってきたのは「学校は教会ではない。学校は学校である。教会は教会である」ということです。私の授業に出席した生徒は覚えているでしょう。

私がそれを言うのは「なぜ自分はクリスチャンでもないのに聖書を読まされて、期末試験を受けさせられて成績まで付けられるのか」と思っている生徒がいるからです。説明する必要があります。

しかし、だからといって私は、教会と学校とで、人が変わったように変貌するわけではありません。そのようなことはできませんし、したくありません。それでも学校の授業が成り立っているということは、教会と学校の間で通じ合う点があることを意味していると、私なりに理解しています。

さて、今日はいつもと少し趣の違う話をさせていただきます。昭島教会を含む日本キリスト教団は歴史的にいえば、プロテスタント教会の系譜を受け継いでいます。プロテスタント教会のはじまりが16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターの名前と結びつくことは確実ですが、スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンの存在も忘れることができません。

そこで今日はルターとカルヴァンが今日の箇所、特に6章1節と2節について何を書いているかをご紹介したいと思い、準備してきました。両方とも日本語版があり、多くの人に読まれてきました。

パウロは2000年前の人です。ルターとカルヴァンの時代は500年前です。パウロと比べて1500年分はわたしたちに近い感覚の持ち主たちです。本を読んで理解可能な要素があると思います。

今から14年前の2009年に「カルヴァン生誕500年記念集会」が日本で行われました。開催委員会の書記は私でした。会場は東京神学大学(東京都三鷹市)を借りました。参加者約200人。カルヴァン生誕500年祭は世界中で行われました。その後、今から6年前の2017年に「宗教改革500年記念集会」が、これも世界中で行われました。ルターが1517年10月31日にドイツ・ヴィッテンベルク城教会に95か条の提題を貼りだしたときから数えて500年を記念したものです。

ルターのほうから紹介します。今日の私たちのテキストであるガラテヤ書6章1節についての解説文だけで、日本語版で9ページ分も割かれていました。どういう内容かといえば、ルターの論争相手だった当時のローマ・カトリック教会の人たちが、このガラテヤ6章1節の言葉を用いて、教会の中で大事なのは「柔和な心」なのだから、ルターが問題にしているような教会の教義上の小さな問題に振り回されて教会の一致と平和を乱すべきではないなどと説教しているが、それは断じて違う、という趣旨のことを日本語版で9ページ分も書いています。よほど腹に据えかねる事件があったのではないでしょうか。ルターの立場からすれば、今日の箇所の「柔和な心」は、読み方次第で諸刃の剣になる、ということです。真理を語り、正義を貫こうとする人々の口封じの一手になりえます。

しかし、そのルターが、次のガラテヤ6章2節について書いている言葉は重くて深くて温かいです。「愛するということは、詭弁家たちが想像するように、他の人のためによいことを願うことではない。他の人の重荷を負う、すなわち、あなたにとって大変な、できれば負いたくないものを負うということである。それだから、キリスト者はがっちりした肩と力強い骨を持って、兄弟たちの肉、すなわち弱さを負うことができるようであるべきである」(『ルター著作集 第二集』第12巻「ガラテヤ大講解下」徳善義和訳、1986年、400頁)。

ルターが述べているキリスト者が持つべき「がっちりとした肩と力強い骨」は、もちろん比喩です。心の問題であり、信仰の問題です。

カルヴァンは何を書いているかを、次にご紹介します。だれが言い出したか、ルターは豪放磊落な人だったのに対し、カルヴァンは学者肌で神経質で厳しい人だったというような評価があるようですが、今日はぜひそのピリピリした評価を吹き払えるようなカルヴァンの良い面をご紹介したいです。

ガラテヤ6章1節についてカルヴァンは、人の心の中の「野心」の問題から書き起こしています。ただし、これもルターと同様、あくまでも教会の内部の話です。人に野心がある。外見上は熱心のように装いながら、実は傲慢で、他人を軽蔑したり侮辱したりしている。他人の欠点を見つけると、それを材料にいつでもその人を抗議できると考え、ますます追い打ちをかける。野心があるゆえ相手を非難することに熱心だからそういうことになると、カルヴァンは書いています。

しかし、カルヴァンはこのことを、自分自身を棚に上げて言っていません。それが大事です。教会の中で起こる問題を扱っていることは明らかですし、カルヴァン自身も当事者のひとり、ないし代表者として、自分の胸に手を当てながら書いている文章だと思います。

そして、とても素敵な言葉がありました。「酢の中には油も混ぜておかねばならない」(『カルヴァン新約聖書註解』第10巻「ガラテヤ書・エペソ書」森井真訳、新教出版社、1962年、135頁)。

私はいま毎日自分で食事を作っているので、この意味が分かりました。ここで「酢」の意味は、人の過ちを非難する辛辣な言葉です。酢は生のままで飲むと焼け付いたように喉がしびれます。しかし、「酢」に「油」を混ぜると美味しいドレッシングになります。酢に卵黄と塩を加えて泡立てながら油を少しずつ加えると、美味しいマヨネーズになります。いろいろ混ぜると酢は人に優しくなり、肉も野菜も美味しくなります。カルヴァンが書いている意味は、きつい言葉は控えるべきだ、ということです。

そしてカルヴァンは、この箇所の解説で「キリスト教的な𠮟責の目的」は、「倒れたものを引き立て、建て直すことであり、すなわち、まったく回復させることである」(同上書、同上頁)と書いています。

6章2節についてカルヴァンは、「パウロは我々の弱さや悪徳を『重荷』と呼んでいる」と解説したうえで、次のように書いています。「他人の重荷を背負うことをパウロが命じているのは、むしろ我々が自分の荷をおろすためである。それは、柔和で友情に満ちた正し合い(日本語版「矯正」)によって初めてなしうることである」(同上書、137頁)。

わたしたちの教会が「自分の荷をおろせる」教会であるかどうかは、わたしたちに任されています。人の重荷を背負う務めが教会にあると言えますし、それが教会の存在理由であるとも言えます。野心も、外見上の熱心も、傲慢も、わたしたちにこびりついた性質のようなものなので、努力や手術で取り除くことはできません。しかし、そのわたしたちの性質こそがイエス・キリストを十字架につけたのだと十字架を見上げて心を落ち着けることが大事です。最後に申し上げたのは、私の言葉です。

(2023年7月16日 聖日礼拝)

このブログの人気の投稿

感謝の言葉(2024年2月25日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 讃美歌21 436番 十字架の血に 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「感謝の言葉」   フィリピの信徒への手紙4章10~20節  関口 康   「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」  今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。 ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。 今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。 パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。 しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現...

立ち上がれ(2024年2月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) 礼拝開始チャイム 週報電子版ダウンロード 宣教要旨ダウンロード 「立ち上がれ」 エフェソの信徒への手紙 5章 6~13節 関口 康 「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 今日の箇所の中心的な言葉は「光の子として歩みなさい」(8節)です。直前に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」と記されています。この箇所で描かれているのは、キリスト者の教会生活の始まる“前”と“後”の違いです。「光の子」は教会生活を営むキリスト者であり、その反対の「闇の子」はそうでない人々です。ただしこの描き方には人の心を傷つける要素があります。今の説明が間違っているという意味ではありませんが、慎重な配慮を要する箇所であることは間違いありません。 「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(6節)、また「彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」(8節)とあります。文脈上は明らかに、教会の外にいる人々が「むなしい言葉」を語っているので、その仲間に加わらないでくださいという意味です。しかし、そのように言えば、強い反発が返ってくるでしょう。「教会は、なんと鼻持ちならない人々か。自分たちだけが正しく、他のすべての人が間違っているかのように言う」。この批判には真摯に耳を傾ける必要があります。 別の見方ができなくはありません。それは、「光の子」と「闇の子」を区別することと、教会に属するか属さないかは無関係である、という見方です。日本では「無教会」の方々は、いま申し上げた立場をお採りになります。しかし、その方法では問題は解決しません。少なくとも今日の箇所で言われている「光の子」は「教会の交わり」から離れては存在しません。 ただし、その場合の「教会」の意味は場所や建物ではありません。神の言葉が語られ、聞かれ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いの福音を共に信じ、互いに助け合い、さらに聖餐式や愛餐会を通して共に食卓を囲む信徒同士の交わりこそが「教会の交わり」です。 特に最後に挙げた聖餐式と愛餐会は、教会の最も“物理的な”要素です。一例だけ挙げます。今もコロナ禍が完全に収束していると考えている方はおられないと思いますが、とらえ方は多様でしょう。最もひどい状態...

にじのいえ信愛荘(教団隠退教職ホーム)訪問

2021年9月23日(木) 昭島教会を代表して関口康牧師と滝澤操一兄が日本キリスト教団隠退教職ホーム「にじのいえ信愛荘」(東京都青梅市)を訪問し、以前昭島教会で牧師としてお働きくださった2組の牧師ご夫妻を訪問しました。共同生活を営む隠退教職の方々の健康と安全が守られるようお祈りください。 にじのいえ信愛荘にて(動画) みんなで寄せ書きした色紙と花束 教会の上空はおおむね好天。暑い 青梅マラソンスタート地点を通過 にじのいえ信愛荘に到着 鈴木正三先生、鈴木信子姉と 滝澤操一さんと鈴木先生ご夫妻 長山恒夫先生、長山篤子姉ご夫妻と にじのいえ信愛荘の近くを散策 帰り道に多摩川の清流のほとりまで ままごと屋(青梅線沢井駅すぐ)で食事 多摩川を渡るつり橋の前で 鮎釣りの方ががんばっておられた 青梅市のまちおこし「レトロ映画看板」