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苦しみの意味(2023年7月30日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

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「苦しみの意味」

ペトロの手紙一3章13~22節

関口 康

「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」

来週8月6日(日)は日本キリスト教団の「平和聖日」です。78年前の1945年8月15日の日本の敗戦を想起し、戦争反対を貫き、平和のために祈るために「平和聖日」が設けられました。

来週の「平和聖日」の礼拝で取り上げる聖書の箇所を本日の週報で予告しています。ローマの信徒への手紙12章9節から21節です。その箇所の冒頭の12章9節以下に「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と記され、14節に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とあり、さらに17節に「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」とあります。

ローマの信徒への手紙の著者は、使徒パウロです。その中でも特に「悪を憎み、迫害する者のために祝福を祈りなさい」という教えは、イエス・キリストの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)という教えの系譜につながるものです。

そのように考えて、私は来週の「平和聖日」の宣教題を「悪を憎み、敵を愛しなさい」とさせていただきました。あえて分けるなら前者の「悪を憎みなさい」のほうは使徒パウロの言葉であり、後者の「敵を愛しなさい」のほうは主イエス・キリストの言葉としてマタイによる福音書の著者マタイが書いた言葉であるという違いがあります。しかし出所が違う2つの言葉をひとつなぎにしたのは、両者の教えの間に何の矛盾もないことを言い表したいからに他なりません。

ここまで申し上げたのは、来週の「平和聖日」の聖書箇所についての予告です。今日の箇所は主イエス・キリストの言葉でも使徒パウロの言葉でもなく、使徒ペトロの言葉です。先ほど朗読していただいたのはペトロの手紙一3章19節以下ですが、少し前の3章8節には「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と記されています。これも、主イエス・キリストの教えとも使徒パウロの教えともつながる、同じ系譜の教えであることは明らかです。

そしてその教えの流れの中に今日の朗読箇所があります。「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(13~14節)とあり、さらに「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が悪を行って苦しむよりはよい」(17節)とあります。

今日の問題は、たったいま読んだばかりのペトロの手紙一3章17節の「善を行って苦しむ方が悪を行って苦しむよりはよい」という言葉の意味は何か、ということです。それを考えるための材料または土台として、先ほどは主イエス・キリストの言葉と使徒パウロの言葉を紹介しました。

主イエス・キリストと使徒ペトロと使徒パウロという3者の教えが本質的に一致していて全く矛盾がないとすれば、新約聖書の教え、ひいては二千年のキリスト教の教えとして確定したものだと言えるかどうかは、よく考えなければならないことです。

なぜそう言わなければならないかといえば、「悪を憎みなさい」という教えも「敵を愛しなさい」という教えも、たとえそれがイエスさまの御言葉であろうとだれの言葉であろうと、わたしたち自身が日々営んでいる現実の生活とその中で形成される生活感情が、その教えを拒絶し、生理的な不快感や反感を抱き続けるかぎり、それは決してわたしたち自身の心の中で納得し、受け入れ、喜んで従う教えになることはありえないからです。聖書と教会の教えは、現代社会においては、どこまで行っても参考意見にすぎず、不服であれば拒否すれば済むことだとみなされています。

今日の問題が「善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよい」の意味は何かであると先ほど申しました。この言葉で分かる一つのことは、苦しみそのものが悪ではないということです。わたしたちは、人から苦しめられること、あるいは自分自身に原因や発端が無いと感じることで苦しむ経験をするとどうしても、苦しみそのものが悪であるかのように感じてしまいます。私自身はどこまで行っても善であり続けているのに対し、あくまでも私を苦しめる人/事/物が悪であると言いたくなります。しかし、そうではないということを17節の言葉が教えています。悪を行って味わう苦しみとは区別される、善を行って味わう苦しみがある、というのです。

この意味での「善」が「悪を憎むこと」と「敵を愛すること」を少なくとも必ず含んでいることは明らかです。具体例を挙げれば、すぐ分かることです。

悪を憎めば、たちまちわたしたちに苦しみが襲いかかってきます。政治の問題、社会の問題、経済の問題、そして信仰の問題においても、正義に反すること、すなわち「悪」が行われる場所や状況は、ほとんどの場合、光のもとではなく、陰や闇に隠れています。それを明るみに出そうとすると、必ずや激しい抵抗にあい、抹殺されかねませんので、その抵抗や殺意に堪えなくてはなりません。それが悪を憎み、善を行って苦しむことの意味です。

敵を愛すれば、味方が敵になりかねません。敵でなかった相手から敵視され、拒絶され、孤立する可能性が生じます。たとえイエスさまが「敵を愛しなさい」とおっしゃったとしても、味方を失いたくないから、仲間外れにされるのが嫌だから、孤立するのが怖いから、そのこと自体が苦しみだから、苦しみそのものが悪だから、私は敵を愛することなどできないし、自分のことを愛してくれるほんの一握りの人たちとだけ一緒に生きていきたいと願うなら、「善を行って苦しむこと」になっていないと言われても仕方がありません。

今日の箇所の後半、特に18節から始まる箇所に、イエス・キリストが十字架のうえで味わわれた苦しみの意味が記されています。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(19節)と記されているのは、旧約聖書のノアの洪水物語(創世記6~9章)で、箱舟に入らず滅ぼされた人たちのところまでイエス・キリストが行かれ、福音を宣べ伝えられた、ということです。それは、イエスさまが地獄の底まで罪人を追いかけて愛してくださった、という意味になります。イエス・キリストは、悪を悪でないと白黒を差し替えるのでなく、悪を憎んだうえで、敵をどこまでも愛し抜くために、十字架のうえで地獄の苦しみを味わわれました。

「わたしたちは罪ある人間なのであって、イエス・キリストではないのだから、敵を愛することなど絶対できない」と言い張り、善のために苦しもうとしないわたしたちのためにイエスさまが苦しみの模範を示してくださいました。

実際には、イエスさまの教えのとおり「敵を愛すること」なしに、戦争が終わることも平和が実現することもありません。敵を愛する苦しみは、愛さないで苦しむよりはよい。どれほど堪えがたかろうと、憎い相手を受容し、共存する道を探ることが、わたしたちに求められています。

(2023年7月30日 聖日礼拝)

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