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罪人にして、同時に義人(2023年7月23日)

 

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 402番 いともとうとき


「罪人にして、同時に義人」

ルカによる福音書10章25~37節

秋場治憲

「そして、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」

 ここのところヨハネ福音書を読み進んで参りましたが、今日はルカ福音書をテキストと致しました。これは宣教題かテキストか、どちらかが間違っているのではないかと思われた方もおられると思います。この題であるならパウロのローマ人への手紙こそ、相応しいのではないかと思われた方もおられることでしょう。今日はこの「善いサマリア人」の譬えの後半部分に焦点を当ててみたいと思います。今日このテーマについてお話ししようと考えたのは、前回の宣教からしばらくして、ある方から「罪人にして、同時に義人」ということについてもう少し説明してほしいという依頼があったからです。確かに振り返ってみると、少々説明不足であったと思い、今日はこのことを中心にお話しをしようと思った次第です。このテキストを選んだのは、宿屋のベットの上で、その痛みに呻きながらもサマリア人の約束の言葉に信頼して横になっているであろう旅人の姿に、私たちキリスト者の姿が重なったからでもあります。

 今日の「善いサマリア人」のお話は、「ある人がエルサレムからエリコに降っていく途中、追はぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」そこへ祭司が下ってきたが、道の向こう側を通って行った。そこへ今度はレビ人がやってきたが、その人を見るとやはり、道の向こう側を通って行った。祭司は勿論のこと、レビ人も神殿に仕える役職の人です。いずれもエルサレム神殿で中心的な役割を果たしている人たちが、この傷ついた旅人を無視して通り過ぎた後、今度は当時ユダヤ人とは敵対関係にあったサマリア人がやってきた。ところがこのサマリア人は、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」私はここの個所を読むと、主イエスがヨハネ福音書13章で弟子の足を洗う時の描写を思い出します。主イエスは「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」主イエスの一つ一つの動作が実に丁寧に描写されていて、その時の情景が目に浮かぶようです。 今日のテキストであるサマリア人の描写も、その手当の描写だけでこの傷ついた旅人を思いやる思いが伝わってきます。聖書を読むときに、私たちは書いてある内容に注目しますが、内容だけでなくその描写の仕方にも注意して読むと言外のニュアンス、著者の思いに気づかされることがあります。

 さて前置きが長くなりましたがこのサマリア人、ご自身が座すべきロバの背に、この傷ついた旅人を乗せ、ご自身はほこり舞いあがる道を歩いて宿屋に向かいました。そして恐らくは翌日まで看病し、「翌日になると、デナリオン銀貨2枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』と言って旅立った。これは言葉を変えると、「この人の傷が完全に癒されるまでに必要なすべての代価は、私が払います」といっているのです。そしてこの旅人の介抱を宿屋の主人に依頼し、旅立ちました。この約束の言葉をベットの上で聞いていた旅人は、自らの傷が治るまでの必要な代価の心配をする必要がないというサマリア人の言葉に励まされ、その約束に涙しながら感謝し、その約束された癒を待ち望みつつ療養生活を続けるのではないでしょうか。またその間、その傷が悪化することのないように、自らの健康を損なうようなことは控えるのではないでしょうか。ルターはローマ書講義の4:7の講解において、この「善きサマリア人の譬え」に言及し、このサマリア人と旅人の関係を医師と患者の関係に例えています。この旅人は現実には半死半生の状態で、宿屋のベットの上に横たわる者ですが、この医師の約束の言葉を信じる限りにおいて、すでに希望において、健康な者とされ始めているというのです。医師はこの病は「死に至る病」ではないという言葉によってすでに、彼を癒し始めているのです。それでは彼はすでに健康な者なのかというと、そうではない。彼は病人でありながら、確かな約束によって癒され始めている人なのです。これをルターは「罪人にして、同時に義人」と表現したのです。

 ルターはそのローマ書講義の中で、アウグスチヌスとアンブロシウスの言葉を引用して、自分が罪についていかに無知であったかということを述べている箇所があります。二人とも4世紀の教会教父と呼ばれ、カトリック教会ではルターの時代にも「聖人」とされていた人たちです。まずアウグスティヌスが「罪は洗礼によって赦されるが、その結果、罪は存在しなくなるのではなく、帰せられなくなるのである」と述べています。またアンブロシウスは「私は常に罪を犯す、だからいつも聖餐をうける」と述べています。しかしルターは自分は愚かにも、二人のこの言葉を理解することができなかったと語り、また自分が懴悔し告白した時に、どうして自分を他の人と同じ罪人と考えなければならないのか、どうして自分を他の誰よりも優っていると考えてはならないのかを理解することが出来なかったと述べています。つまりルターは懺悔し告白した時には、内面的な罪も含めて一切の罪は除去され、一掃されたと思っていたというのです。

ルターのこの体験は500年前のことですが、これは今の時代においても時として、キリスト者を、またキリスト教を学び始めた者を悩ませることでもあります。ルターは「罪の赦しは確かに真実であるが、しかし罪の除去ということは、希望の中にあることであって、今後罪として帰せられなくなるということを知らずに私は自分自身と格闘していた。」と述べています。今の我々には自明のことのように受け止められていることも、ルターのこのような格闘の結果得られた理解であるということにも思いを馳せたいと思います。

 宿屋のベットの上で横になっている旅人に今一度注目してみますと、彼は現実には半死半生の病人です。しかし彼は同時に、自分をあたかも既に健康な者とみなしたもう方を信じることによって、彼は病人であると同時に、健康な者とされているのです。従ってこの旅人が、万一自分をあたかも健康な者とみなしたもう方から目をそらしますと、そこには半死半生の状態でベットの上に横たわる自分の姿しか見えず、たちまちにして恐れと不安と恐怖にさえ包まれてしまいます。このことをパウロは「私はなんというみじめな人間なのだろう。だれがこの罪のからだから、私を救ってくれるだろうか。私たちの主イエスキリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、私自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのです。[1](口語訳)と告白しています。信仰と不信仰は常に表裏一体をなし、私たちの信仰生活に緊張感を与えています。

この私たちの信仰生活の緊張感に対してルターは注目すべき言葉を残しています。「私たちは現実には罪人ですが、神の確かな認定と約束によって義人なのです。つまり(終わりの日に)完全に救われるまでは、この約束によって救われた者とされているのです。またこのことにより、彼は希望においては、完全に救われているのです。彼は実際には罪人ですが、常に自分が不義なる者であることを知って、常に自分が救われることを願い求めるために、(繰り返し)義(とされるため)の開始(出発点)を与えられている。」前回でしたか、復活した主イエスが、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われたことを思い出して下さい。私たちは何度でもよみがえる、と言ったと思います。そのニュアンスを汲んでいただければ幸いです。

 キリスト者というのは、not in being but in becoming というルターの言葉を紹介致しましたが、キリスト者は常にこのbecomingの出発点に立つ者なのです。「もう半世紀もキリスト者をやっているのに、ちっとも成長しない」、という言葉も耳に致しますが、そうではない。それこそ正にキリスト者の真の姿というものなのです。私たちは常にこの出発点に戻されつつ、前進させられていくのです。

パウロが「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。[2]」と、キリスト者が常に過程の中に、途上にあることを力説しています。神は自分の罪を告白し苦悩する者を義と認めたまいますが、自ら義人であると考える者は罰し給うのです。

その過程は、またその途上は、キリスト・イエスによって捕らえられている過程であり、途上であるというのです。様々な人生の困難に打ち砕かれ、悩みながらも出発点に戻され、新たな一歩を踏み出すという過程を繰り返すうちに、私たちのうちにも知らず知らずのうちに、「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っている。[3]」という年輪が刻まれてきていることに気づかされる者です。

 さて今一度今日のテキストに戻りたいと思いますが、このサマリア人は翌日になると、デナリオン銀貨2枚を宿屋の主人に渡し、この傷ついた旅人の介抱を依頼し、「もし費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」と言って旅立った。古来この宿屋は、「教会」と理解されてきました。今日はルターの引用が多くて恐縮ですが、次の言葉は、ルターが教会について述べた言葉です。

 「従ってこの世の生は罪からの癒しの生である。(この世には)癒しが完了し、健康が獲得された罪のない生というものは存在しないのです。教会は病人及び介護を必要とする者たちの宿屋であり、病院なのです。天国は確かに健康とされた者たち、義とされた者たちの宮殿です。聖ペテロが第一ペテロの手紙の終わりに(正しくは第二ペテロの手紙3:13)「主は義とされた者たちにおいて、義が住む新しい天と新しい地をつくりたもうことだろう[4]。」と言っている通りだ。しかしこの世にはいまだ義は住んではいない。しばしの間、彼らのために、罪から癒されるための宿屋を提供しているのです。[5]」ということは、もし私たちが自分の義が完成されること、自分の中の罪が完全に廃棄されることを祈るなら、それは同時に私たちのこの世の生が終わることをいのることになります。それゆえに私たちはこの世にある限り、罪人でありながら、神がその罪を告白する者を義としてくださることを信じて生きるということなのです。

 教会は主イエスからこれら病人、介護を要する人たちを委託されているのです。先週の関口先生の宣教の中でも、ルターのガラテヤ書講義からの引用がありましたが、今一度読んでみたいと思います。

「愛するということは、詭弁家たちが想像するように、他の人のためによいことを願うことではない。 他の人の重荷を負う、すなわち、あなたにとって大変な、できれば負いたくないものを負うということ である。それだから、キリスト者はがっちりした肩と力強い骨を持って、兄弟たちの肉、すなわち弱さ を負うことができるようであるべきである」(『ルター著作集 第二集』第 12 巻「ガラテヤ大講解下」 徳善義和訳、1986 年、400 頁)。

 ここには私たち自身が介護を必要とする者でありながら、また罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、父なる神の怒りに打ち勝って、よみがえった主イエスの霊によって満たされている者たちは、がっちりした肩と力強い骨を与えられているのだから、そうでない者たちの弱さを少しでも担う者であろうではないかというのです。この物語の最後は「行って、あなたも同じようにしなさい。」という言葉でしめくくられています。私たちが主と仰ぐ方は、私たちの最大の重荷ともいうべき死を、代わって引き受けてくださった方なのですから。

 私たちの神は、「神は愛である」と言って、一人いと高き所で燦然と輝いていたもう方ではなくて、ベツレヘムの馬小屋に「その独り子をお与えになった」方であり、この方はスカルノ井戸辺で渇きも忘れて、サマリアの女を諭された方であり、弟子たちの足を一人一人洗い、手ぬぐいで拭われた方であり、傷ついた旅人の傷口にぶどう酒を注ぎ、油を塗り、包帯をして、ロバの背にのせ、宿屋へと運び、看病される方であり、またその傷が完全に癒されるまで、この方が我らと共に道行きたもうというのです。だから私たちは何回転んでも、また起き上がることができるのです。それは先に見たように、イエス・キリストに捕らえられた道行きだから、私たちには確かさ(平安)がある。私たちが捕らえている確かさでは、心もとないかぎりですが、捕らえられている確かさがある。これが主イエスが「私はあなた方に平安を残していく」と言われたこと。

 ちょうどこの宿屋のベットに横たわる半死半生の旅人の中では、古き人と新しき人が同居しているのです。ここには自らを不義なる者と告白する者の呻きがあり、そして義とされることを求める不断の祈りが生まれます。そしてこのことがアダムの子孫であり、カインの末裔と言われる私たちが、審判から恵みへ、死から命へ、滅びの子から神の子とされるに至る道に我々を伴いたもうというのです。信仰によって生きるとは、目に見えることによって歩むことではなく、目に見えないことによって歩むこと。これは大変なこと。しかし同時にこの世界は、若者は幻を見て喜び、老人は夢を見て歓喜するという心躍る世界に羽ばたくことでもある。

それ故に私たちは使徒信条で今一度「我は聖霊を信ず」と告白します。なぜなら私たちは自分の理性や力によっては、以下に続くことを信じることは出来ないからです。

かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたもうその日まで、我は聖霊(罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、父なる神の怒りにも打ち勝ち、よみがえられた主イエスの霊)に励まされながら、我らの歩みを進めて参りますと告白できること自体が既に奇跡なのです。聖霊の働き、語りかけなくして、この告白はできないことなのです。

この後に聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命を信ずと続きます。これらはCREDO(私は信じます)という現在形の動詞の目的語になっています。今現在私は~のことを信じますという信仰告白を私たちは毎週しているのです。これらはいずれも神が私たちに信じることを望んでおられることです。使徒信条の完了形で書かれた出来事と未来形で書かれた出来事の間に生きる現在形であらわされている事柄、神が私たちに信じることを望んでおられる事柄です。これらのことは少しづつ学んでいきたいと思います。

「罪人にして、同時に義人」とは、私たちは現実には罪人であり、罪人に過ぎないのですが、神の認定によって義とされていることを信じて生きるということ、それは同時に心躍る世界に羽ばたくことでもあるということを学びました。



[1] ローマ人への手紙7:24,25

[2] フィリピの信徒への手紙3:12~14

[3] ローマの信徒への手紙5:3~4

[4] 「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(新共同訳 2ペテロ3:13)ルターの「つくりたもうだろう」は未来形、聖書の「待ち望んでいるのです」は現在形で、言葉も違っています。ルターが自由に聖書を引用している様子がうかがわれます。それでも言わんとしている内容は変わりません。

[5] ローマ書講義4:7の講義より私訳。

(2023年7月23日 聖日礼拝)

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